1646年、ラムジーに戻り織元を継ぐも、発明品(複写器)の販売のためロンドンに居を移す。
フランシス・ベーコンの学徒らと交わり、
王立協会の前身の一つ
サミュエル・ハートリッブを中心とするロンドン理学協会(
不可視の学院、と同一)に参加。ベーコンの経験論的な実験方法に強い影響を受ける。また、この時期に親友
ジョン・グラントと知り合ったと考えられている。やがて共和国軍による
オックスフォード大学の改組で、オックスフォード駐留軍の司令官であったグラントの義弟
トーマス・ケルシーらの強い証言もあり、オックスフォード大学に迎えられた。ここで医学博士の学位を得、1651年解剖学講座の教授となった。さらにオックスフォード大学ブレイズノーズ・カレッジの副学長となり、グラントの斡旋により
グレシャム・カレッジの音楽教授となった。絞首刑に処せられた少女アン・グリーンの蘇生に成功するなど、ペティの解剖学者・医者としての名声は高く、オックスフォードにおける理学協会の集会も当初ペティの宿舎で行われた。
1952年、共和国によるアイルランド派遣軍の軍医総監に任命され、また
アイルランド総督チャールズ・フリートウッド将軍の侍医となり、アイルランドに渡る。測量総監
ベンジャミン・ウォースリーの実施方法を批判し、自らの指揮による測量を提案。この提案が採用され、1655年よりペティによる科学的な測量(ダウン・サーヴェイ、Down Survey)が実施された。募集された叛徒の土地は測量結果により派遣軍に出資・参加した各階層に分配され、ペティはその責任者に任命された。ペティは兵士に与えられた給与債務証書を買い集め、
ケリー州及びその他地域で広大な土地の領主となる。さらにアイルランド総督
ヘンリー・クロムウェル[1657年に就任]の秘書となり、クロムウェル家の庇護の下、イギリスの
ウエスト・ルー選出の下院議員となった。しかし、
オリバー・クロムウェル死後の共和国末期にアイルランドでの不正行為を告発され、すべての公職から追放されロンドンに戻った。