祖父の
新渡戸傳(つとう)は、
幕末期に荒れ地だった南部
盛岡藩の北部・三本木原(
青森県十和田市付近)で灌漑用水路・稲生川(いなおいがわ)の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し都市計画や産業開発も行った。この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ、十和田市発展の礎となっている。このように新渡戸家は稲造だけでなく傳を始めとした英才を輩出していたが、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。稲造の曾祖父で
兵法学者だった
新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼりつめた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没している。こうした「不遇」は、第二次世界大戦へと突き進む時代の中で平和のために東奔西走しながら亡くなった稲造の生涯にも通ずるかもしれない。
札幌農学校(のち
北海道大学)の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した、「少年よ大志を抱け」の名言で有名な
ウィリアム・クラーク博士はすでに
米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。稲造は祖父達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、
教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家、今で言う
テロリストの意味合いもある)という
あだ名を付けられた。
クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として
聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員が
キリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の
内村鑑三(宗教家)、
宮部金吾(植物学者)、
廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメゾジスト系の宣教師
M.C.ハリスから洗礼を受けた。この時にキリスト教に深い感銘を受け、キリスト教にのめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際、「
キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(
修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。
その後
札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費で
ドイツへ留学。
ボン大学などで聴講した後ハレ大学より
博士号を得て帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より
名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、
カリフォルニア州で転地療養。この間に名著『
武士道』を英文で書きあげた。
日清戦争の勝利などで
日本および
日本人に対する関心が高まっていた時期であり、
1900年(
明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなった。